「当たり前」じゃないを受け入れる
3.11 東日本大震災
各メディアでも報道されていますが、今日はあの東日本大震災の発生日です。
あの衝撃的な映像は、目に焼き付いていて、二度と消えることはありません。
その報道で使われる「当たり前」という言葉。
私個人的に、この言葉ほど自分基準な言葉はないな。と思っています。
「当たり前」は誰(何)を基準にしているのか。
我が家には障害児がいますので、その子が産まれて来て障害児と判断された時点で、それまで味わってきた「当たり前」が壊れました。
「当たり前」のように自分でご飯を食べて「当たり前」のように会話して。
「当たり前」のように映画に行ったり「当たり前」のようにランドセル背負って。
自分の成長過程と比較して「当たり前」と思っていたことが、ままならない。
震災で被災された方も、日常の「当たり前」が奪われたときの悲壮感は半端じゃなかったと思います。
「当たり前」のように学校や仕事から『家』に帰り
「当たり前」のように趣味の時間を過ごし
「当たり前」のように家族との時間を過ごす。
私の話と比較するのも、おこがましい話ですが、我が家は「当たり前じゃない」を受け入れるの苦戦しています。
住む家もなにもかもあるのに。
頭ではわかっているつもりでも、なかなか容易なことではありません。
被災された方の「当たり前じゃない」を受け入れるための精神的ダメージは想像を絶します。
自宅を津波で失った方々や原発事故で避難区域に指定された方は、いまもそれまでの「当たり前じゃない」環境で生活されています。
その生活をその方々にとっての「当たり前」にするために。
昨日のご縁市での復興支援で出会った女性の方。
ほかの地元の出店者より、抜群の笑顔でした。
「当たり前」じゃない土地で過ごしているのに。
なんとも力強い笑顔でした。
被災された方にとって、落ち着いて過ごせる日々が早く来ることを切に願っています。
1個人で出来ることは限られますが、少しでもお役に立てるよう、支援を続けていきます。
出来ることから1つずつ。。。
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