障碍児を受け入れられた訳

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前回の記事で振り返りを言っておきながら、早速全然関係ない記事と言う(笑)
今日は、この記事が書きたいのです。

我が家には、国指定の特別児童である重度な知的障害児がいます。
今年で10歳になりました。
正直、平坦な10年ではありませんでした。

産まれて数年は、1日中泣きっぱなし。
トイレは3歳からトレーニングを始めて、今年やっとトイレの自立に成功。
食事も自分ではこぼしすぎるので、介助が必要
・・・

と、まぁ、いろいろありました。

いま思ってみれば、産まれた時点で0歳ではなかったかなと。
0歳にも満たしていなかったと思います。

2013年の今年、いろいろ通年してやったこととは別に達成したこともあります。
それは、息子との接し方がわかった。ということです。

正直、去年までは、息子のことが理解出来ず、受け入れているようないないような、曖昧な感じでした。
息子だし、笑顔かわいいし、粗末な扱いをした訳ではないですが、心の中でしっくり来ていなかったというか。

でも今年、ついにその辺りが心の中で落ち着きました。
そして、なぜこれまで理解出来ず、曖昧だったかの理由も。。。

理由も単純ではなく、多重なのです。

1.本能と理性の乖離
ここは結構重要なポイントです。自閉症の子(人)は、基本的に理性がありません。
全ての行動に置いて本能に忠実なのです。
一方の大人と言えば、理性を育て上げられているので、理性で接しようとします。

本能は、条件反射とかと同じで、無意識で行います。
理性は、真逆で意識的に行います。

ここに大きな乖離が発生しています。

つまりは、本能で来ていることを、理性で理解しようとするから難しいのです。
本能で来ていることを、いったん受け止めてあげれば良いのです。
いったん受け止めた上で、その是非を判断して促してあげれば良いのです。

2.自分の過去との重ね合わせ
これは完全に盲点でした。かつ、自分の悪いところでもありました。
知らず知らずのうちに、自分の子供時代と重ねている自分がいました。

『自分の子供の頃がこうだったから、この子もきっとこんな感じだろう!』

と思っているところがありました。
が、全然違いました。

子供は子供なのです。別次元の人間なのです。
自分の過去や枠に当てはめてはいけないのです。
その子という存在を受け止めてあげないといけません。

自分の過去との重ね合わせを止め、その子を個人として見るようになってから、随分と楽になりました。

3.息子のことが理解出来てきた
仕事を理由にするのは反則かもしれませんが、これまではあまり注視してきませんでした。
でも、これまでも書いたように、今年1年、じっくりと見てきました。

その結果、1や2のことに気付き、息子のことがわかってきました。
同時に、嫁さんが背負ってきた苦労も。。。

あと、(独断ですが)人間が生きて行く上での、いろんなバランス関係も。

その辺りが理解出来た時点で、かなりスッキリしてきています。
(↑これも、理性なんですけどね)

たまに、周りの保護者の方から、接し方について相談を受けることがあります。
相談内容を聞いていると、多分にして、これまでに書いたことでつまづいている感じがします。
(もっと深いところがたくさんあるのかもしれませんが。。。)

僕個人的には、社会人でありビジネス人であり経済活動に忙しい毎日です。
しかし、息子の生き方を見ていると、本当にその活動が必要なのか?と疑問を感じることがあります。

もっとゆとりを持って生きても、生きられる術があるのではないか?

そういう新たなる疑問と言うか課題というか。そういう考えに行き着きました。
日本にいる以上は、納税義務もあり労働の義務もあるので、働かないといけませんが、忙しすぎる社会ってどうなの?
とも思えるようになってきました。

障碍児を受け入れられたことで、新たなる発想が浮かんできそうです。
若干36年ですが、これまでの人生において想いもよらなかった発想が。

こういう人生も、なんか面白いな。と思えた2013年終盤です。

その瞬間は重くて苦しいですが、過ぎてみて振り返ってみると、いろいろ見えるもんですね。